2020年02月17日

2度目の逮捕から学ぶこと

プロフィールにも書いている通り、
僕は、槇原敬之さんの歌詞に影響されてきた。

大学生のころ、いよいよ初のコンサートに行けると
「Cicada」アルバムツアーのコンサートチケットを手に入れたのを覚えている。
楽しみにしている最中、“槇原敬之覚せい剤逮捕”と聞いて
嘘だろ!と今回と同じような気持ちになったことも覚えている。

執行猶予がとけるころ、アルバム「太陽」を聞いて、
ものすごく内省されていて、内省のすることの大切さと同時に、
人生の沈みを味わった後に書かれる歌詞は、心に響くと感じた。

もしかしたら、槇原敬之さんがまた復帰するころ、
内省に内省を重ねた心に響く歌詞で僕らの人生に影響を与えてくるかもしれない。

でもだよ、
なぜ、この30周年というこの時期に。
なぜ、21年前と同じ人と同じような容疑で。
なぜ、同じ過ちに見えるようなことになっているか。

21年前と比べて、様々な曲を残してきた状況で、
なかなか理解するのは難しい・・・

今回の2度目の逮捕から、僕らは何を教訓として得られるのだろうか。

あえて教訓というなら、「後ろめたさ」と「大事な人」だろう。

僕たちは、ずっと生きていると何かに「後ろめたさ」を感じながら
行うことは1度や2度はあるだろう。
その「後ろめたさ」に緊張感を覚え快感ともとれることもあるだろう。
またまた、その後ろめたく思っていることは、なかなか表にでることはない。
すぐに表にでるなら、“失敗”だとか“後悔”になり、反省につながるだろう。
すぐに表にでないからこそ、後ろめたいのだ。

そして、ここぞというときに「後ろめたい」ことは姿を現す。
「30周年というみんなから期待されている時ではなく、ほかの時でもいいのではないか。」
「あと半月もすれば、新しいアルバムが出る時ではなく、ほかの時でもいいのではないか。」
そう感じる。
「後ろめたい」ことは、大事な時に表に出てくる。

今、行っている「後ろめたい」ことは、大事な時に出てくるよ。
その覚悟はできていますか。
と今回の逮捕が教えてくれているみたいだ。

あえて今、得られる教訓のもう一つは、「大事な人」だろう。

21年前、一緒に逮捕された人と同じ人が絡んでいる。
どうして?と思うこともあるし、
もう縁をきると、21年前に行っていたのに・・・と思うこともある。

僕らの大事な人に当てはめてみると、
自分が「大事な人」と思っていたとしても。
周りから、君には合っていないよ、ほかにもいい人がいるよ、あの人はやめときなよ
などと言われたとして、
自分が「大事な人」と思っている人を断ち切れるだろうか。
何か言われれば言われるほど、大事な人がもっと「大事な人」に思えてくるのではないだろうか。

どうやったら、「大事な人」から離れられるのだろうか。
それまでに大事にしているコトを変えないと、増やさないといけないのだろう。
同じようなコトを同じような価値観で行っている限り、
「大事な人」から離れることはできないのだろう。

だって、そこには、安心領域があるのだから。
自分が安心するところに「大事な人」がいるからこそ、
誰から何を言われようが、自分が大切にしていることが大事なんだと思ってしまうのだろう。

「後ろめたい」と「大事な人」
誰でも陥りそうな教訓であること。

2度目の逮捕は、
起こるべきしておこったのかもしれない。

そして、また3度目もあるかもしれない。
そのころは、もう驚かないだろう。
希望をもつから失望する。

そんなことを考えながら、
生きている限りは、またコンサートで会えることを期待している。

さて、Facebookでやっていた
「槇原敬之に学ぶ人事のオキテ」
どうしようかな・・・

こんなときだから復活するか
もうやめるか・・・

ちょっとまだ、
テレビでおちゃらけた槇原敬之さんを見ると
まだまだ残念に思う気持ちがあるので、
落ち着くまではしばらくそっとしていよう。
posted by nowvillage at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 槇原敬之