2022年05月16日

ファンがいるということ

2022年5月14日に槇原敬之さんのコンサートが立川ステージガーデンで実施された。
あの逮捕があって以来の復帰のコンサートだ。

最初に復帰アルバムの曲から始まると、
いきなり代表曲であり、いつもコンサートの終盤で歌われることの多い
「どんなときも」が流れ始めた。
Bメロでいつものように1回、2回、手をたたいたあと、こぶしを突き上げる。
コンサートでは聞きなれていた曲なはずだけど、すでにウルっときてしまうのは、
またこの瞬間が訪れたことと前と変わりのない様子に安心したからなのかもしれない。

そうして、冒頭の3曲が終わると、槇原敬之さんの何か様子がおかしい。
しきりに目のあたりをタオルで拭いている。
汗かきだから汗をかいているのかな、と思ったが、
涙をぬぐっている様子がうかがえた。

泣くことは期待していなかったが、
そのくらいの思いでステージに返ってきたことにこちらも嬉しく思った。

そして、槇原敬之さんが涙をぬぐいながら話をした
「槇原敬之のファンということを言いづらくさせてしまったこと」
と伝えてくれた。

マスクをして、声を発してはいけない会場に、
「そんなことはないよ」「大丈夫」という声が聞こえた気がした。

僕も同じように「そんなことはないよ」という思いだった。

ただ、確かに言いづらくなったのは事実だった。

「槇原敬之のファンなんです」なんて伝えると、
「あ〜あの覚せい剤の〜」と、大抵の人が反応してくる。

槇原敬之さんが20年前に覚せい剤をしたときには、
僕も大学生で、そこまで大人と接する機会も多くはなかった。

今は、40を過ぎて、周りは大人しかいない。
そうすると、反社会的な印象をもつ覚せい剤を所持していたというのは、印象はよくない。

まして、僕は同時にASKA ファンでもあるから、なおさら、みんなの反応は強くなる。

その反応に対して、僕は、
「覚せい剤してもいいけど、見つからないでほしい」と笑いに変えるように反応返す。

僕は槇原敬之の曲に影響されてきたファンの一人なので、
正直、もはや何をしようが、構わない。
むしろ、調子に乗る時期もあれば、奈落の底に落ちる時期もあるくらい浮き沈みが激しい方が、
その心情に寄り添った琴線に触れるような素晴らしい曲を書いてくれるのではないか
と期待をしている。

そんな個人の期待は関係なく、槇原敬之のファンだとは言いづらくなっていたのは確かだ。

僕らの仕事に置き換えてみると、
ファンではないものの、僕を信用してくれて、または会社を信用してくれて、
仕事をお願いしてくれる顧客がいる。

僕も顧客の発展を願うし、顧客も僕の会社の発展に期待してくれている。
だからこそ、仕事を任せてもらえていると思う。

それは、ファンとは少し違うけれど、
「○○さんだから・・・」と信頼されていることに他ならないように思う。
その信頼に応えようと一生懸命頑張っていると、
知り合いにも紹介してくれたりする。
僕ももっと顧客に貢献できることは何か考えようとする。
その良い循環が回って、かけがえのない存在となっていって、
成功事例で紹介したり、取引先企業で紹介したり、
更にビジネスは続いていく。

そこで、僕が不祥事を起こしたら、どうなるだろう。
顧客が不祥事を起こしたら、どうなるだろう。

取引停止は免れない上に、
あの人と、あの会社と付き合っていた?
と後ろ指刺されるようなことになってしまうのだろう。

せっかく紹介してくれるほど、気に入ってくれていたものが、
逆にサービスを受けていたことを隠さなければいけない事態にもなりかねない。

「たとえ、どんな不祥事があってもビジネスを一緒にしていく」と
決めていたとしても、周りの反応に影響されていくことだろう。

それでも一定期間が過ぎた後に、
ビジネスを再開してくれたならば、僕は間違いなく
”僕の会社のファンということを言いづらくさせてしまったこと”
を謝罪することだろう。

みんな社会で生きている以上、
誰かに支えられ、誰かに気に入られて、自分が存在している。

誰にでも大切な存在(ファン)がいるということを改めて感じさせれた。

コンサート初日に、槇原敬之さんが涙をぬぐいながら話をした
「槇原敬之のファンということを言いづらくさせてしまったこと」
と伝えてくれたことから、僕らが学ぶべきことがあるのだろう。
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2021年09月07日

槇原敬之さんの2度目の復帰について

昨日、槇原敬之さんが
10月27日のアルバムで復帰することが発表された
覚せい剤で逮捕され、
執行猶予が残っているにも関わらずやや早い復帰なことは否めない。
せめて執行猶予期間中は自粛するのが筋だろう。

ただ、もし、
曲を作っても発表する場もなく過ごしていたら、
どうなるのだろうか。
時間があまり過ぎて、
また覚せい剤に手を出すのではないだろうか。
もしくは、
もっと良からぬことを考えてしまうのではないだろうか。
そんなことも頭によぎる。

槇原敬之さんの歌で、曲で、
人生の時々で影響されて生きてきたファンの一人としては、
槇原敬之さんが誰を好きであろうが、何をしようが構わない。
誰を好きでどう行動したことによって、できた曲でも、
悪いことをして良いことをして、できた曲でも、
その曲を聴いた僕らが何かを感じとり、
自分の気持ちや行動に影響を与えてくれるのなら、
その曲は素晴らしい曲だといえるのだろう。

専門用語的に言うと、歌詞を聞いてメタ認知から内省し、
概念化を行い、ポータブルスキルとして自身の行動に反映する
とでも言うのだろう。

少なからず、
これまでの槇原敬之さんの曲には、そういった影響があった。
具体的に書かれたフレーズ、抽象的にかかれたフレーズ、
それを自分なりに解釈して、
まるで自分の人生のオキテのように感じて行動に反映させる。
私は、そのことを「槇原敬之に学ぶ人生のオキテ」と題して、
Facebookページで投稿してきた。

その影響された曲の中には、実体験もあるだろうし、
想像で作られた曲もあるだろう
以前、槇原敬之さんがコンサートで、
家族と話していた実体験をもとに曲になっていることや
実体験ではなく想像で作っている曲のことを話をされていた。
実体験であれ想像であれ、
何かしらの出来事が引き金となって作られたのだろう。
その引き金となる出来事が今回のことであれば、
また僕らに教訓を与えてくれるかもしれない。

簡単に考えると、
”一度犯した過ちをもう一度繰り返してしまう”
ということも挙げられるが、
実体験をした本人でしかわからない題材が待ち受けているのだろう。
僕らが曲を聴いて、どういった内省ができるのか楽しみだ。

21年ほど前に発表された復帰アルバム「太陽」では、
これほどにない内省されたと思われる曲で綴られていた。
おそらく槇原敬之さんの発表したアルバムの中でも
トップを争うくらいのファンからの人気ではないのだろうか
実体験から内省した歌詞と想定できるからこそ、
曲を聴く人には刺さるのだろう。

先日、同じように覚せい剤から復帰した
ASKAさんも同様なことが見受けられた
復帰アルバム「To Many People」は、
ここまで自分のことをさらけ出してもいいのかと思えるくらい
内省をしているように感じ、
曲を聴いた人には実に刺さるアルバムだった。

「ミュージシャンは、こういったことを起こしても復帰できるからいいなぁ」
とヤフーの書き込みでもよく目にする。
でも、復帰できていない人もいる。
その違いはなんだろうか
と考えると、
それは日ごろから、
作品に等身大の自分をさらけ出しているかどうかなのだろう。

Mr.childrenの桜井さんが不倫をした後に曲を出したり、
福山雅治さんが父親や祖母を題材に曲を出したりするように、
多少脚色するだろうが、
自ら体験したときに感じたことをさらけ出している。

こういった姿勢があるからこそ、
何かあったときでもファンは待っているし、
復帰できるのだろう。

もし仮に、槇原敬之さんが謝罪とするならば、
覚せい剤をしたことに対して謝罪するのではなく、
僕らが内省できるような曲を聴く
機会を奪われたことに対して謝ってほしいものだ。

そして、取り繕ったような綺麗な曲だけしか書けなくなったとき、
そんな時は心からファンに謝罪してほしい。

きっとそんなことはないと信じています。
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2020年02月17日

2度目の逮捕から学ぶこと

プロフィールにも書いている通り、
僕は、槇原敬之さんの歌詞に影響されてきた。

大学生のころ、いよいよ初のコンサートに行けると
「Cicada」アルバムツアーのコンサートチケットを手に入れたのを覚えている。
楽しみにしている最中、“槇原敬之覚せい剤逮捕”と聞いて
嘘だろ!と今回と同じような気持ちになったことも覚えている。

執行猶予がとけるころ、アルバム「太陽」を聞いて、
ものすごく内省されていて、内省のすることの大切さと同時に、
人生の沈みを味わった後に書かれる歌詞は、心に響くと感じた。

もしかしたら、槇原敬之さんがまた復帰するころ、
内省に内省を重ねた心に響く歌詞で僕らの人生に影響を与えてくるかもしれない。

でもだよ、
なぜ、この30周年というこの時期に。
なぜ、21年前と同じ人と同じような容疑で。
なぜ、同じ過ちに見えるようなことになっているか。

21年前と比べて、様々な曲を残してきた状況で、
なかなか理解するのは難しい・・・

今回の2度目の逮捕から、僕らは何を教訓として得られるのだろうか。

あえて教訓というなら、「後ろめたさ」と「大事な人」だろう。

僕たちは、ずっと生きていると何かに「後ろめたさ」を感じながら
行うことは1度や2度はあるだろう。
その「後ろめたさ」に緊張感を覚え快感ともとれることもあるだろう。
またまた、その後ろめたく思っていることは、なかなか表にでることはない。
すぐに表にでるなら、“失敗”だとか“後悔”になり、反省につながるだろう。
すぐに表にでないからこそ、後ろめたいのだ。

そして、ここぞというときに「後ろめたい」ことは姿を現す。
「30周年というみんなから期待されている時ではなく、ほかの時でもいいのではないか。」
「あと半月もすれば、新しいアルバムが出る時ではなく、ほかの時でもいいのではないか。」
そう感じる。
「後ろめたい」ことは、大事な時に表に出てくる。

今、行っている「後ろめたい」ことは、大事な時に出てくるよ。
その覚悟はできていますか。
と今回の逮捕が教えてくれているみたいだ。

あえて今、得られる教訓のもう一つは、「大事な人」だろう。

21年前、一緒に逮捕された人と同じ人が絡んでいる。
どうして?と思うこともあるし、
もう縁をきると、21年前に行っていたのに・・・と思うこともある。

僕らの大事な人に当てはめてみると、
自分が「大事な人」と思っていたとしても。
周りから、君には合っていないよ、ほかにもいい人がいるよ、あの人はやめときなよ
などと言われたとして、
自分が「大事な人」と思っている人を断ち切れるだろうか。
何か言われれば言われるほど、大事な人がもっと「大事な人」に思えてくるのではないだろうか。

どうやったら、「大事な人」から離れられるのだろうか。
それまでに大事にしているコトを変えないと、増やさないといけないのだろう。
同じようなコトを同じような価値観で行っている限り、
「大事な人」から離れることはできないのだろう。

だって、そこには、安心領域があるのだから。
自分が安心するところに「大事な人」がいるからこそ、
誰から何を言われようが、自分が大切にしていることが大事なんだと思ってしまうのだろう。

「後ろめたい」と「大事な人」
誰でも陥りそうな教訓であること。

2度目の逮捕は、
起こるべきしておこったのかもしれない。

そして、また3度目もあるかもしれない。
そのころは、もう驚かないだろう。
希望をもつから失望する。

そんなことを考えながら、
生きている限りは、またコンサートで会えることを期待している。

さて、Facebookでやっていた
「槇原敬之に学ぶ人事のオキテ」
どうしようかな・・・

こんなときだから復活するか
もうやめるか・・・

ちょっとまだ、
テレビでおちゃらけた槇原敬之さんを見ると
まだまだ残念に思う気持ちがあるので、
落ち着くまではしばらくそっとしていよう。
posted by nowvillage at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 槇原敬之

2014年06月08日

槇原敬之に学ぶ人事のオキテ

8か月ぶりの更新・・・

今年も半年が過ぎましたが、
新たな試みをやってみたいと思います。

僕のプロフィールでご存じのとおり、
僕は槇原敬之ファンで影響されてきました。

槇原敬之の曲をから得られる教訓(オキテ)みたいなものを書いていきたいと思います。

Facebookページで展開していこうと思うので、
アカウントをお持ちの方は、Facebookページにいいねをおしてもらえるとうれしいです。

第一弾は、明日、6月9日にUpする予定です。
最初は、40枚目のシングル「ムゲンノカナタヘ」の中から書きます。

少ない文章で考えられる内容を発信したいと思います。

ご期待ください。


【新facebookページ開設しました!!】

https://www.facebook.com/makiharanoriyukiokite

僕らは、さまざまな歌に影響され、生きています。時に、歌の示している状況が、まさに自分の出来事のように感じることがたくさんあります。
そんな歌の中でも、大好きな槇原敬之さんの歌詞から、今を生きる僕らへオキテのように伝えているメッセージを取り上げます。
共感してくれる人が一人でもいることを願っています。

≪予告:第一弾 6月9日UP予定☆≫

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posted by nowvillage at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 槇原敬之